家の掃除を済ませたら、この一週間の食料品を買い込んできた。
f0057955_16252742.jpg
ロマネスコが安かったので、今日のイワシのパン粉焼きの付け合わせにしてやろう。

それにしても毎度見事なフラクタル形状。本人もさぞかし面倒だろうと思いきや、ウィキによれば「このような構造を生成するために必要な設計情報も、比較的単純な手続きの再帰的な適用で済まされるので、遺伝情報に占める割合もごく少量で済むものと考えられる。」とあった。なるほどそうしたものか。

24日 またもや朝3時起きで成田空港、6時発のJetstarに乗り込んだところで具合が悪くなり、じっと耐えていた。悪寒がこみあげ、脂汗が出て、からあくびを繰り返す。同行したカミサンによれば顔も血の気が引いていたとかで、軽い貧血状態だったのだろう。このところ無理をし過ぎて、体がついてこれなかった様だ。私も歳をとったものである。

何とか回復して新千歳空港、実家で母の入院準備、14時めがけて市内の病院に向かった。かなり老朽化した建物だが、スタッフはとても親切で、年寄りを扱いなれている。聞けば患者の平均年齢は80数歳とか。

25日 実家に泊まり、再び足りない荷物を持って見舞いに行く。早めに終えて、正月に顔を出せなかった月寒の叔母宅を訪ねた。下の叔母は年末に膝の人工関節手術を受けたそうで、来週は別の足で入院予定。上の叔母も、体のいたるところが痛くて辛く、リハビリに通っているとかで、皆して歳をとったと盛り上がった。?

成田空港に置いていたポルテ号で9時過ぎに帰宅、バルサとチャグムの活躍を見て就寝。
22日の朝は3時に起きて成田空港、6時のJetstar便で新千歳空港、JRで札幌、地下鉄で真駒内、バスには時間があるのでタクシーで10時には実家到着。タクシーには持ってもらって母から診察券と健康保険証とお薬手帳を預かり、再びタクシーで眼科と耳鼻科。

本来ならば本人が受け取らねばならぬ処方箋だが、代理で私が受け取って調剤薬局。薬をゲットしたら平岸に移動して、母の主治医に相談。短期入院の目途をつけて、途中のコンビニで昼飯のサンドイッチを買って、母と遅い昼食。

自宅で養生して回復して欲しかったが、もはや限界であるらしいので緊急避難の入院を決めた。ここで持ち直して、再び自宅で暮らせるところまで回復して欲しいものなり。

夜の便で成田に戻り、明日の出張に備えてこのまま成田に泊まる。勿論これは自腹の宿泊だが、5千円の東横インは有難い。
f0057955_21245530.jpg
23日 レインシャワーとか言う新設備。お湯が真上から降ってくるのはイイ感じだ。
f0057955_212519100.jpg
成田の東横インは、大規模増設工事中である。今日も見渡せばほとんどが中国人旅行者だったようだ。

東関道から圏央道を移動して美浦トレセン。販売店の営業氏といろいろと話して戻る。
f0057955_2129499.jpg
そうそう、遅い朝飯は、発酵の里「神崎」の発酵定食、デザートにはファミマのヨーグルト。疲れた体には発酵食品だな、うん。

車を自宅に置いて、ルイガノ号で出勤。メールに対処して、雑務をこなして、明日はお休みします。来週からは、安定して仕事に向かえそうだ。
今日も風が強い、そして気温も低い。
雑用を片付けるうちに、月次ミーティング。来月に、部内のお二人が転勤となった。補充はあるのだろうな、私の考えることではないか。

仕事の合間に、明日のスケジュールを組む。翌日の昼前には隣県に用事もできたので、こりゃまたハードなことになった。気を引き締めてまいろう。

今夜はカミサンが友達と夕食、私は飯を作る必要がなくなったので、寒風に吹かれる帰路にラーメンで温まってきた。

明日は3時起きだ、もう寝ます。明日の予定が無事にこなせれば吉である。
いつも通りに起きて、しかし早めに朝を済ませて、8時半の同僚との市内待ち合わせに車を走らせる。ピックアップして、市内の農家さんで写真撮影。同僚を最寄り駅に送って、私は成田空港を目指したまでは予定通りだった。
f0057955_2274649.jpg
しかし、第3ターミナルに着いてみれば我が便は欠航。到着地の大雪とのこと。
キャンセル窓口に並んだが、今日と明日の便は満席で、となれば仕方がない、預けたポルテ号に戻って自宅まで戻ってきた。高速代と駐車料金の数千円を払い、午後休を取り、まだ私は千葉に居る。
成田でいいだけ砂嵐に吹かれて髪の毛はザラザラ、これはまったく理不尽である。
f0057955_22383582.jpg
実家の母にはケアマネさんに打ち合わせに行ってもらい、私は明後日の早朝便で移動することにした。会社事務所に確認すれば、折悪しく先日すっぽかした相手先からは23日のアポがメールで届いているらしく、では明後日は日帰りせねばならぬようだ。

人生ままならぬ、煮詰まっているが、ここは持ちこたえて何とかするのだ。
13日は、母の整形外科に同伴、レントゲンではどこにも難は認められず、ところがその夜に眩暈がしたらしい。翌日起きれば今度は脳神経外科に連れて行けという。
尻餅をついた際に、壁に頭を打ち付けていて、タンコブができた。母の周囲に、頭を打ってから一か月後に硬膜下出血が判明した方がいたらしく、これを心配している。
私としては、足が痛いという母なのに二日間も検査で広い病院内を歩き回ることによる体への負担が心配なのだが、ここは本人の言うとおりにしてやろう。

14日は大事を取ってタクシー移動と、病院内は車椅子を押した。
で、やはり何ともなかった。頭を打ったぐらいでいちいち硬膜下出血していては、人類は既に死に絶えている。まあ、不安の連鎖に襲われている母には、納得すべきことだったのだろう。

15日 滞在が一日延びて、水曜日の午後に成田から出社。新製品ロゴの作業にバタバタして、周囲に迷惑をかけてしまった。

16日 バタバタと仕事をしつつ、午後からは来客対応。もうこのメーカーさんとも25年の付き合いだ。言いたいことは山ほどあれど、私も大人になったものだ。
f0057955_20592374.jpg
17日 聞きたかったセミナーは昨日終わっていたけれど、業務のネタ探しに国際展示場の健康博覧会。終われば機能性原料の取引先と打ち合わせ。ちょうどよい機会だ、神田のヨナヨナでビールを飲みながらあれこれ話して有意義であった。

18日 あっという間の土曜日、昼前に母から電話、ますます足が痛んで立てなくなった由。言わんこっちゃない、検査のハシゴでかえって足腰を痛めてしまったようだ。これは困ったことになったが、土日は現地のケアマネさんも病院も休みであるので、どーしようもない。
f0057955_2193016.jpg
既にJetstarは満席、移動は明日以降だ。カミサンと蕎麦を手繰りて市内探索。
夕方には下の息子を呼んで、稲毛海岸のビール屋で飲み、我が家に戻ってまた飲む。

19日 昨夜は仕事が忙しく合流できなかった上の息子が来て、皆で昼飯を食う。母に電話して、月曜日の午後からの帰省とした。ケアマネさんと話して、必要ならば母の入院に向けてあれこれせねばならぬ。どーにも困ったことになってきた。
11日の夜に札幌の母から電話がある。先月尻餅をついた後遺症が今頃出たのかもしれず、左足をつくと痛んで歩けぬとか。月曜日の通院に付き添うために、急ぎ日曜日に帰省することとした。

大急ぎで我が家の掃除をして、カミサンに成田空港まで付き合ってもらい、立ち喰い寿司を食べたらいつものJetstar。雪まつりの最終日のため、まだ料金は高めだ。
f0057955_114048.jpg
流石に寒い札幌、しかし日本海側を襲った大雪は、今回はここではあまり雪を落としていないようだ。

さあて、これから整形外科まで。もはや老朽化した人工関節がどうにかなっていなければ吉である。バリアフリーの実家では、歩行器を押して歩けば何とか生活はしていけるようであるけれど、、、

検査の結果では、レントゲンに写らぬほどの腰部椎骨の微小な圧迫骨折が疑われた。背中を叩けば痛い場所がある。多分そんなところだろう、何とか歩けてはいるのだから。

とりあえず重大な事にはならず、一安心だ。
f0057955_10443165.jpg
11日の土曜日 風は冷たいが快晴でお散歩日和。カミサンが行った事がないという千葉寺を見るべく、モノレール県庁前駅からテクテク歩く。れん月で蕎麦を手繰り、後ろの丘を登れば、創建709年というウルトラ古い千葉寺がある。見事な山門、大銀杏の木、周囲に無造作に広がる墓所。

千葉寺町、葛城と抜けて、更なる丘の上にそびえる千葉大医学部を目標に亥鼻、旭橋から都川を渡って本町公園で一休み。ここまでくれば市街地も整備されているが、千葉寺から亥鼻あたりまでは流石に昔から人が住んでいるだけあって、車も入れない道が、しかも直線ではなく、都度に枝分かれして、ジモティでなければすぐに道に迷ってしまう。
千葉はぐるりと周囲に山がないので、どこを向いて歩いているかがわからなくなる土地柄なのだ。

近所のコンビニでカップ酒とつまみを買ってきて、公園のベンチで一杯やる。公園の看板によれば、この都川が大昔は市内をグルリと大回りして池になっており、椿森あたりで対岸に渡ったらしい。更級日記に記載があるという。なんでも上総の国府に任官していた父の任務完了により、寛仁4年(1020年)に作者が京に戻る途中で、大雨で増水した川に二日間の足止めを余儀なくされたとか。これまた古い話である。

あの更級日記の作者が少女時代にここを通ったのだ。おそらく道すがらに千葉寺にも詣でたことだろう。京の都までは、いったい何日を要したのだろう。今度読んでみようかしら、更級日記。今の時代だ、現代語訳などもあるのだろうな。
一昨日と昨日は、猛烈な風が吹いた。
事務所からの帰路、自転車が止まりそうな向かい風に、泣きながらペダルを漕いだ。体感気温はかなり低かったろう。

今日は、気温はそれほど高くはないものの、風がないのが救いだ。安心して風を切って走ることができたのだ。

午前中はメインの担当製品に関する打ち合わせ、何とかこの好調の勢いを維持せねばならぬ。午後からは新製品に関するあれこれ。広告を出した新聞の担当者のミスで、若き同僚が振り回させている。あまりに気の毒で、余計な世話を焼く。
f0057955_21243133.jpg
年賀はがきの当たりで切手シートが二枚、交換してきた。今年のお年玉切手は随分とゴージャスだ。

夕食は鶏を焼き、厚揚げと野菜の煮物などを作りて食す。
新製品の社内公募の関係で、最近この曲に向き合う羽目になった。
今は佳い時代で、YouTubeでレノンの面影を辿ることができる。
レノンがヨーコと共に白い館に入り、レノンがピアノを弾き、ヨーコが窓を開け、光が満ちていく。
Imagine there's no Heaven. It's easy if you try.
No Hell below us. Above us only sky.
Imagine all the people. Living for today~~~♪

若い頃、これが必然だと思った。どうしてこうならぬのかと憤った。歳をとって、いろいろ事情は呑み込めてきたつもりなのだが、やはり宗教が障害になっていることは否めない。

モスレムの過激な原理主義、対するキリスト教国のやはり過激な選民史観。これを救うべきは、自らが悟る仏教の価値観と、八百万の神々に護られる世界観を有する私達ではないのか。日本はよき伝統を伝えてきたと思わざるを得ないのだ。

何故 聖戦の名の下に自爆せねばならぬ、何故 自らの神の名の下に他人を殺す。彼らには、マインドコントロールの下で気が狂っていることを判らせねばならない。

1971年、私が高校生だった、今からもう46年前の歌なのだ。
日曜日なので少し寝坊して、朝飯を食べたら市内の研究所までポルテ号を走らせる。数年前に我が家のベランダの鉢植えから移植した柑橘の木が、今年もたわわに身をつけている。今日が今シーズンでおそらく最後の収穫だ。昼飯に毎日一個ずつ食しているのである。
f0057955_2004244.jpg
ベランダの鉢植えでは、根圏が制限されて気の毒だった。夏場はアゲハの幼虫の餌になり、とても実をつけるほどには成長しなかったが、土に降ろしてやれば毎年メキメキと成長した。

札幌で買ってきて、食べた実の中に、芽を切っている種があったので、不憫に思って植木鉢に落としたのが始まりだ。もう何年たったのだろう。

こうして毎年数十個の実をつける。何もメンテナンスしていない、粗放栽培だが、木で熟した実はジューシーでワイルドで美味しい。庭の木に黄色い実がなるのを珍しく感ずる北海道人である。

昼に息子が来たので葱と豚肉の饂飩、小松菜でキッシュを作って持たせる。ついでに送って行って、食料品の買い物をして戻る。今夜はキッシュで白ワイン、その後は燗酒を飲みながら湯豆腐と鱈子と蒟蒻の煮物。